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第2回 2016年10月 加藤周一『羊の歌』(岩波新書上下2巻)のこと

 

 

 

「思想の科学」という水脈  

第2回 2016年10月

加藤周一『羊の歌』(岩波新書上下2巻)のこと

 

 

 

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 第1回で鶴見俊輔の、「この1冊と言えば」にあげられたアレクサンドル・デュマ作、黒岩涙香翻案『巌窟王』のことを書いた。今回は、私自身の「この一冊」のことを書いてみたい。この1冊と言えば、私は迷うことがない。加藤周一著『羊の歌』(岩波新書上下2巻)である。

 

私は高校3年生の秋にこの本と出会った。そのとき、この本の一ページ一ページをめくりながら、長く探しあぐねていたものに、今こうしてようやく出会うことができた、という思いが確信のようにやってきていた。この時から、かなりの間、たぶん3〜4年間くらい、この本を繰り返し読んでいたが、飽きるということがなかった。高校3年生の後半、浪人時代、そして大学の前半の時期がそうである。ずっと持ち歩いていたこともある。持ち歩いていたのは下巻だったと思うが。私はいわゆる青年期の精神的彷徨のさなかでこの本と出会った。それまで手に取ることのできた本や知りえた知識をもとにはじめていた未熟な模索は混迷を深めるばかりだった―――人間や社会のとらえ方、世界や時代への対し方、出会うべき学問と仕事への漠然とした期待と焦慮の思い、文学・思想へのあこがれ、そういうもの全体とかかわって生きる人間の可能性―――しかし今や、その生きた実例が、眼の前に、見事に示されているではないか、そんなふうに、この本はやって来ていた。

とにかく、私は、この本を読みながら、このように生きた人がいるのか、こんな人生がありうるのかという驚きに包まれていたと思う。

あの時から40年以上がたった。私は今、少しちがった位置に立ってこの本のことを考えてみたいと思っている。かつて、私は自分の未来のためにこの本を読んでいたが、今はこの国の未来のために、この国の若い世代のためにこの本のことを考えたいと思う。  

 

それで、『羊の歌』の内容を、とりわけ『羊の歌』の文章がどんなに素晴らしいかを、いくらかでも、まず味わってもらうために、少し長めの引用をいとわず、ある程度のまとまりで何か所かを紹介する。読者は、一つ一つを、短編小説を味わうように読むことができるはずである。始まりと終わりを★で示し、始まりの箇所にその文章が含まれる、原著の章のタイトルを、小見出しとして付けた。私は、その間に、私の文章を綴っていこうと思う。

祖父の家

★その頃西銀座に祖父は小さなイタリア料理店を経営していた。一階に酒場があり、そこからせまい急な階段をのぼると、二階で食事ができるようになっていた。祖父は孫を連れてその店へ食事に行くことがあった。「今日は家族連れだ」などといいながら、酒場の奥へ声をかけ、顔見知りの男たちと軽口を叩き合う。それはイタリア語かフランス語のやりとりで、抑揚が表情に富み、大げさな身振りを伴っていて、家で祖母や女中たちにとりかこまれ、母や私たちと話している祖父とは、全く別人に変わってしまったかのような印象をうけた。それが私には、すじのわからぬ芝居の一幕を眺めているようにみえた。芝居のなかの祖父と子供たちとの間にはつながりがない。二階へ通じる階段の上り口で、私は主人公が一瞬の間私たちの存在を忘れているということを知っていたし、私たちの役割がその短い一幕の見物人であるほかない、ということも知っていた。二階では料理店の女主人が待っていて、いくらかつくった華やかな声で、「あら、お珍しい、どうぞ」などという。「お珍しいもご挨拶だな」「でもそうじゃないかしら・・・」「いや仕事が忙しくてね」「どんなお仕事でしょう?」と女主人はからかうように笑い、「それどころじゃないよ、昨日大阪から帰ってきたばかりだ」と祖父があらたまった声を出すと、急に調子を変えて、「あちらはいかがでございますか」「なに、相変わらずだが・・・」「いつもそう仰るだけね」と、いうべからざる媚びを含んで―――と私には思われた―――睨む。女主人と祖父の一幕は、酒場の男たちとのやりとりとは、またちがう別の世界のものであった。そこには合言葉のようなものがあり、ひどく丁重であるかと思えば俄かにうちとける表現があり、その度に華やいだり沈んだりする気分があった。祖父とその婦人との関係が、祖母や私の母との関係とはちがう一種の親密さの上に成りたっているらしいということを、私はただちに感じた。私はその親密さが一個の品物のように確実にそこにあるということ、しかしその品物の内部に外から入っていくことは全く不可能だろうということも感じていた。(中略)

私の父は祖父を好まず、その「放蕩」を非難していた。妻以外の女との交渉は、悪事のなかの最悪のものであった。カトリックの尼僧が経営する学校で育った母は「放蕩」を悪事とすることで父とちがわなかったろうが、そのことを非難するよりも、むしろ説明しようとしていた。もし祖父があれほど信頼していた長男を早く失うことがなかったら、その後の放蕩はおこらなかったろう、またもし祖母がことごとに祖父の気に逆らうような女でなかったら、家を留守にすることもはるかに少なかったはずであろう―――罪を憎んでその人を憎まず。しかしそれは果たして罪だったのであろうか。私はながい間私の知っていた祖父と「悪事の中の悪事」とを、抱き合わせて考えることに無理を感じていた。しかしその無理を意識していたのではなかった。いわんやその無理を解決するために、果して「放蕩」がいついかなる場合にも罪であるかないかを、みずからに問うていたわけではない。私は子供だった。私は一方で親から吹きこまれた罪の観念をそのまま受け入れながら、他方で女友達のいるときの祖父を、理解していなかったにしても、理解するかもしれないと予感していたにすぎない。予感が私のなかで実現したのは、はるか後になって、私自身が一人の女の眼のなかにすべてをみ、その一刻が世界の全体よりも貴重だと思われるような瞬間を、経験した後でのことである。その経験は、事の善悪について語ることを、全く無意味にみせる・・・私は祖父を想い出しどうして彼がそれを知らなかったといえるだろうか、と考えた。「放蕩」の語は、みだりにこれを人に冠しても、その人の多くを説明しないと思われる。その内容の人によって異なるのは、品行方正の良家の子女の生活の内容が、人によって異なるのと同じことであろう。しかし祖父の生活の内容を知るためには―――たとえそれが可能であったとしても、私とは年齢があまりに離れすぎていた。祖父の「放蕩」はつまらぬものであったかもしれない、またそうではなかったかもしれない。ただそうであったろうと想像する理由はない、と私は今考えている。私は一体こういう祖父の血をうけついでいるのだろうか。しかしそもそも血統なるものを、私は、若干の遺伝的体質以外のことについて、全く信用しない。そういうことがあるかもしれないが、たとえあっても知ることができないとすれば、考えの上でそれを除外するほかないだろう。そういうことよりは、子供の私が、身の廻りに「放蕩者」といわれる人物をもっていて、その人物について、おそらく多くの失敗を想像することはできても、悪事を想像することはむずかしかったという事実に、意味があるにちがいない。

祖父は、子供たちに対しては、寛大で、金離れがよく、いくらか気まぐれで、しかし一種の誠実さを備えていた。子供に対する約束でもそれを気軽にやぶるということはしなかった。たとえば、祖父がいつものように、なんでも欲しいものを買ってやるといい出したときに、私が生きた馬を望んだことがある。祖父はおどろいて、生きた馬は売っていないといい、それはたとえ手に入れても子供に扱えるものではないといい、なんでも欲しいものといったのは、店で買えるものならば何でもという意味であったといいながら、真面目に説得の努力をつづけて倦まなかった。私は生きた馬よりも、小さな子供を相手に、何とかして説得しようと、どこまでも努力する祖父その人に感動した。私はその感動を、生きた馬の望みを固執することで確かめていた。(中略)

イタリア料理店には、子供の私にとっての「西洋」があった。それは酒場の男たちのためでもなく、祖父の外国語のためでもなく、微妙な―――と私には思われたその料理の味のためであり、機嫌のよい祖父が口ずさんだイタリア歌劇の詠唱の節のためであった。料理の味は、私の両親の家で味わうどんな味からもちがっていた。イタリアの節は、私が家庭で聞いた琴や尺八の旋律からも、また小学校の唱歌からさえも、遠く隔たっていた。そこには感覚の別の秩序があった。その秩序を私があらためて、その頃と同じ程度に鋭く感じたのは、20年の後、地中海の紫の潮と大理石の町をはじめて自分の眼でみてから後のことである。そのとき私は英国で、シティの古い事務所に、祖父の「洋間」の革の椅子を見出し、ローマの街頭に、祖父の酒場の男たちの言葉の抑揚や身振りを見出し、ザルツブルクの歌劇場で、客演のイタリアの歌手の唱う旋律に祖父の口ずさんだ節のいくつかを想い出した。私ははじめて見た欧州に、ながい間忘れていた子供のころの世界を見出していた。西欧の第一印象は、私にとって遂に行きついたところではなく、長い休暇の後に戻ってきたところであった。しかしそれは第一印象にすぎないだろう。私はその後パリで暮らし、その国の言葉を、おそらく祖父が話すことのできたよりも自由に、話すようになった。子供の私にとっての「西洋」が「西洋」のどれほど小さな一部であったか、ということも理解するようになった。私は私の源の、源を知りはじめていた。★

                         

加藤周一は1919年9月19日、東京に生まれ、2008年12月5日に没している。戦後日本を代表する知識人で、血液学を専攻する医学者であるとともに、軍国主義の時代をフランス文学・思想や日本の古典文学への研鑽を通して批判的に見つめ、戦後、批評活動を開始した。1951年秋から3年間フランスに遊学、帰国後は、文学・思想の分野のみならず、美術、音楽、演劇さらに国際政治、社会情勢、宗教、文明批評など広範囲の視野からの総合的批評に健筆をふるった。権力と権威によることを好まず、一人の自由人としての生き方を貫いた。また1960年代のカナダ、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学をはじめ、アメリカ、メキシコ、ドイツ、フランス、イタリア、中国などの大学での研究・講義の仕事(日本文学・日本文化)を続けるなど、各地での生活、文化的経験を重ねてきた人である。英仏独語による論考も多く、『羊の歌』は、英訳と独訳がある。

さて、ここに登場する祖父は母方の祖父で、佐賀の資産家の一人息子で若くしてイタリアに遊学し、日清・日露の戦争を陸軍軍人としてすごし、「戦後陸軍を退いてからは、貿易仲介の事業をはじめて、その後の恐慌で資産の大部分を失った」とある。加藤周一は、この自伝作品を書くにあたって、最初の章を、1920年代半ばの東京、祖父の経営するイタリア料理店での鮮やかな印象を中心にすえている。この明治の自由人としての祖父の肖像を彼は自分自身の人生のルーツにつながるものとして描いたのだ。この個所を読んで気づくのは、祖父へのまなざしに表れている加藤周一の深い人間洞察の力であり、それを可能にしている、人間存在と世界への愛情と好奇心に支えられた想像力・観察力である。祖父に対する「放蕩」論議を彼がどんな気持ちをもって見つめていったか、そして後に、どのような考察を進めていくに至ったか、を追っていくとき、私たちが見出すのは、人間という存在のありようを、いっさいの偏見を排してつぶさに見つめようとする、彼の精神の柔軟さと高さであり、人間と事物、そして世界そのものへの愛ではないだろうか。

親のさしだす世間的なものさしである「放蕩=悪事の中の悪事」を拒むことはできなくとも、自分の実感とは違うことを、しっかりと心にとどめて、あくまでも祖父そのひとへの人間理解へ至ろうとする幼い加藤少年がそこにはいる。こういうところに、たぐいまれな文学者としての、彼の出発点があるように思う。この場面は、そのことがとてもよく表われている場面である。ここには一人の鋭敏な少年がいるのだが、それだけならば、早熟な人がいるとして、すましておけばいい。注目したいのは、彼が人間としての経験を積み、そのことを言葉できちんと表現する意志をもちつづけ、そのための機会を重ね、それを実現していく道をたどり続けたということだ。その結実として『羊の歌』という文学作品がある。この作品の面白さ、この作品のすぐれたところは、自伝作品として稀に見る文学性の高さにあるのではないかと思う。自伝作品であるがゆえの現実性・歴史性に加えて、高い文学性をあわせもっていることが『羊の歌』を不朽の名作にしていると思う。

高い文学性ということを、この場合について具体的に言うと、少年の心に宿った記憶あるいは残像を豊かに保ち続け、経験を重ね成熟した文学を志向する精神が、この記憶・残像と対話を続けた末に結実した文章=作品ということになろうか。対象の一つ一つに迫る言葉の豊かさ、的確さはもちろん、この対話的文体こそが高い文学性をつくりあげている。ある場合は、過去と現在との時間的な対話なのだが、別の場面では、その対話は、異なる領域の間、異なる空間を行き交う対話にもなる。さらに、時間と空間を自由自在に行き交いながら、人間・社会・歴史・文化のさまざまな場面に及ぶのが彼の文章なのである。『羊の歌』は自伝的物語のなかで、この対話的文脈が随所に繰り広げられた作品なのである。

 

土の香り

★私の父がその家族を連れて生家を訪れることは、多くなかった。それは父が医を業としていたためであるかもしれないし、私たちが小学校へ通いはじめてからは、子供のためであったかもしれない。その頃の信越本線の汽車は数が少なく、私たちの家のあった渋谷から、一度上野へ出て、熊谷との間を往復するのにも、日帰りでは忙しかった。しかも汽車を降りて、自動車を雇い、村まで行き、村の中を少し歩いてから家にたどりつくまでには、かなりの時間がかかった。私たちは田舎へ行くたびに、そこで二晩か三晩泊る。子供の私はその小さな旅行を待ちのぞみ、この上もないたのしみとしていた。おそらくその楽しみの性質は、後年の私が、ときに太平洋を越え、ときにインド洋を超えた旅のたのしみと、あまりちがわなかったかもしれない。汽車が荒川の鉄橋を越えるときに、私のもうひとつの世界がはじまる。鉄橋を渡る車輪の規則的な音が俄かに高まり、私はいつもの生活の時間表から、その時、決定的に解放されるのを感じた。車窓には屋並も人影も消えて、河原の広い空と河原との間に、荒川の水が光る。住み慣れた街の空間とは全く別の、もう一つの空間がそこに拡がっていた。鉄橋の上で私は、すでに全く東京を離れ、しかもまだ田舎に着いているのではなかった。一つの日常性との別れは、決定的であり、もう一つの日常性との接触は、まだはじまっていない。鳴り響く汽笛は、目的地への期待を呼びさます以上に、すべての日常性からの解放の感覚をよびさました。荒川とその河原は、太平洋よりはせまい。しかし汽車はおそく、私は小さかった。

私が今離陸したばかりの旅客機のなかで味わう感覚は、小さい私の荒川鉄橋の感覚と少しもちがわない。眼下の街は、涯もなく拡がる雲の海の彼方に、たちまち遠ざかる。規則的な発動機の音は、地上の時間の秩序の終わるのを知らせる。私は行く先を考えず、禁煙の表示が消えたのを確かめながら、煙草に火をつける。私は生涯を考え、他人との関係についてではなく、自分自身について、自分が今ここにいるにはなぜだろうか、と考える。私はあらゆる社会から切り離された一刻の私自身を味わう。

しかし信越本線の小さな駅で汽車を降り、ながい間自動車を待って、その自動車にしばらく揺られ、いよいよひばりの鳴く麦畑の間の細い道を歩き出したときに、子供の私が感じたものは、外国の大都会の空港に降りたつときに今の私が感じるものとは、全くちがっていた。空港では、あの《V.I.P.》(特別に重要な人)という言葉も示しているように特別な例外を除いて、誰もが異邦人であり、誰もが無名であり、誰もがお互いに注意を払わない。税金免除の商品のおかれている空間は、そこに誰も属せず、したがって万人がそこに属している空間である。しかし一つの村は、そこに誰かが決定的に属していて、誰かが決定的に属していないところなのだ。その村の道は、田や畑の間を縫い、竹藪につき当たって折れ、森の繁みの下をくぐりながら、しばらく農家の土塀に沿うかと思うと、また小さな四つ辻を曲る。麦畑にはひばり、竹藪には藪鶯の声を聞くこともある。黄金色の田に風が渡り、案山子につないだ鳴りものが乾いた音をたてていることもある。雨上がりのぬかるみの道には、小さな蛙が飛び出す。炎天の地平線には、壮大な夏の入道雲が眩しく輝くのをみることもあった。そして常に変わらぬ香り―――おそらく藁と肥料の匂いが混じり合った独特の土の香りが、そこにあった。それこそは、日本の農家の匂いであり、今でも私に、田舎が私にとって意味するもののすべてを、どこにいても、たちどころに想い出させずにおかないものである。子供の私はその香りを胸いっぱいに吸いこみ、桑畑の間を思い切り走り、道の岐れ目まで来ると、たち止まってあとから来る両親を待ちながら、また左右どちらかへ走り出そうと足踏みをしていた。その頃の東京では、小学校の校庭以外に子供の駆け出すことのできる場所も、すでになくなろうとしていたのである。

しかし村の道は、決して私だけのものではなかった。村の子供たちは、どこからかあらわれて、私たちの行く道の傍らに集まり、「東京の人」が通るのを待っていた。そのなかには赤児を背負った子守の混じっていることもあったが、多くは小さな子供たちばかりで、野良着のようなものを着せられ、ぞうりをはき、手足を土で汚して、陽にやけた顔をしていた。彼らは私たちに声をかけることもなく、お互いの間で話したりし、囁き合うこともなくて、ただ黙って私たちが通りすぎるのを見まもっていた。それは歓迎でも、好意のあらわれでもなかったが、また敵意や反感の表現ではなおさらなかった。ただむきだしの好奇心がそこにはあったといえるだろう。村の子供たちは、私たちをみるために、またみるためにのみ、そこにいたのである。私を「東京の人」にしたのは、彼らの視線だ。子供の私は、父の生家で、田舎を知ったのではなく、私自身が「東京の人」であることを発見した。田舎は私のものではなく、そこで育った子供たちのものである。彼らは私たちが通りすぎるのをじっと見送った後―――私たちのあとについて来ることは、めったになかった―――急に駆け出したかと思うと、散り散りにどこかへ消えいく。しばらくの間私たちだけが、畑のなかの道にとりのこされる。しかし少し歩いて竹藪や森にかくされた道を曲がると、先廻りをした彼らが、行手に待っていた。私たちが近づくのを眺め、眼のまえを通りすぎるのを観察し、行きすぎてしばらくすると、再び散開し、もっと先の方で待ち伏せをくりかえす。それは出没自在の伏兵に似ていた。彼らは地理に精通し、私の知らないどんな間道をも知りつくしていた。昔その村で育った父はそういう道を知っていたかもしれない。しかし私は父の択んだ道に従ってゆくほかはなく、それさえ先でどこをどう曲がるのか、確かな見当さえついていなかった。子供たちはすべてを知り、私は何も知らなかった。世界は彼らのためにあり、私のためにあるのではなかった。だから私が彼らを観察するのではなく、彼らが私を観察していたのだ。私は彼らの世界の一部にすぎなかったけれども、彼らをその一部とみなすことのできるような世界を私は持っていなかった。心中ひそかに、自分が彼らのひとりであったらと、願わずにはいられなかったが、また同時に、その願いが到底不可能なものだということも、はっきり意識せざるをえなかった。 ★

 

じつに素晴らしい文章ではないかと思う。その背後には、漢詩文やフランス象徴詩の美しさに共感した詩人の精神が躍動している。しかし何よりも、「非専門の専門家」の位置から世界を理解しようと志した人の、現実を見通し、世界を把握する力、さらにそれを言葉として表現する力が、このように結実したということではないかと思う。日本語の散文としての可能性を最高度に示した文章であるかもしれない。和漢洋の幅広い言葉・文藝の知見、経験を基にして、しかし、高度に洗練されすぎることなく、日常の言葉のフィールドのなかを自在に動きながら、これらの言葉はある。しかしこれは単に言葉だけの問題なのではない。一方に、眼前に展開する世界があり、もう一方に、脳裏に去来する記憶やイメージがあり、言葉はそれらと向き合い、行き交っている。両者をつないでいるのは加藤周一という人間の精神にほかならない。こんなあたりまえのようなことを、あらためて確認しているのは、そのことがこんなにも見事にしめされているからだ。

村の道を歩き進むなかで出現してくる「あちら」の世界と「こちらの」の世界の緊張感。自然描写のすばらしさとあいまって、少年のわくわくする息づかいまでも伝わってくるようだ。この文章のことを考えていて、加藤周一の有名な論考「言葉と戦車」にあった一節を思い起こしていた。1968年のチェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」をソ連の戦車隊が武力鎮圧した事件について書いた文章である。その個所を引いてみる。

 

★占領軍(ソ連軍)の兵力は、50万に及び、戦車は1500台以上に達したといわれる。武力の面では、占領側が被占領側よりも、比べものにならないほど強大であった。

しかし言葉の面では、逆に、被占領側が占領側を圧倒した。放送局の建物が占領されたにも拘わらず、ほとんど占領と同時に活動し始めた秘密放送の送り出す電波は、中欧の空にあふれていた。新聞社が占領されたにも拘わらず、秘密印刷の新聞は、街頭で何万部も配られた。街の壁には、至るところで、見えない手が、大きな文字を書いていた。講義と呪いの言葉はまた、行進する青年の叫びとなり、拡声器の呼びかけとなり、老若男女の通行人の面罵となり、兵士たちと議論する市民の弾劾の声となって、占領軍の戦車をとりまいたのである。(中略)

言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、一台の戦車さえ破壊することはできない。戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえもできる。しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものを正当化することはできないだろう。自分自身を正当化するためには、どうしても言葉を必要とする。すなわち相手を沈黙させるのではなく、反駁しなければならない。言葉に対するに言葉をもってしなければならない。1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。その場で勝負のつくはずはなかった。  「言葉と戦車」(『世界』1968年11月号)★

 

対象がどんな小さくとも、逆に、対象がどんなに大きくとも、またその対象の態様と性格のいかんにかかわらず、その全体像と動態を的確に描き出す文章がここにある。こういう文章を読むと、ああこれが加藤周一の文章だと思う。眼前に現出し、展開する事態の構造と本質をこれだけ明快に描き出せるのは、言葉の力であると同時に、見る力・理解する力でもあるだろう。この両者の関連こそは文学を形成する中核にあるものだと思うが、彼の文章を読み、その文章について考えるときに、私はそういうことに思いを巡らしている自分を感じる。文章そのものに、教育力が宿っているということに驚く。

村の子供たちの世界と「東京の人」の世界の間を超えることのできない溝。人が生きることのできる世界は限られているのであり、したがって、ひとが理解できる世界も限られていると考えるしかない。世界はそのようにできている。幼い少年は、その幼さのなかで、避けることのできない、その世界の秩序を受け止めていく。そしてその場の力が読者である私たちにも伝わってくる。

プラハの街頭で対峙するソ連の戦車隊とチェコスロバキアの民衆、それを「圧倒的で無力な戦車」と「無力で圧倒的な言葉」の対峙する世界として描き出した加藤の言葉は、実に強い喚起力をもって、私たちをとらえる。ことの本質を描き出すことが、ありきたりの判断や評価の言葉をこえて私たちに訴えかける。私たちは、どの位置に立って、この事態を、この世界を見るのか。私たちは、何を選択して生きていくのか。さし出された場面、世界そのものが私たちに判断と評価を迫るのである。これ以上の力、これ以上の教育力があるだろうか。

 

 

横町

私の親類の子供たちで、町の小学校に通っているものは、ほとんどいなかった。男の子は暁星や幼稚舎や青山師範の附属小学校、女の子は雙葉や聖心という「特殊な」学校へ通っていた。そういう学校の多くが、基督教と関係が深かったということには、おそらく大した意味がない。「特殊」だったのは、そこに中産階級の子弟だけが集められていたからであり、東京の親類の大部分は、町の子供と交わることが「良家の子弟」には相応しくないと考えていたのである。しかし私の父は、そう考えなかった。町の子供と交わることは、「良家の子弟」に相応しくないどころか、もっとも大切なことであるとして、ひとり息子を普通の小学校へ通わせることを躊わなかった。「金があるかないかによって、人間の価値がきまるのではない」―――という考えは、おそらく、地主の長男の立場ではなくて、遺産をうけとらぬ次男の立場でもあったろう。しかし起源のあきらかでない一種の平等主義が父にはあって、その考えは合理化されていたし、また母にとっては、信じていたカトリック教と抵触せずに受け入れることのできる考えでもあった。夫婦は、息子が家へ連れてくる学校友だちの家庭がどれほど貧しくても、そのことを彼らに感じさせないように、あらゆる努力を払った。しかしもちろん、親が子供に細心の注意をはらうということ自身が、貧しい家の子供に、彼らの家と私の家とのちがいを、思い知らせずにはいなかった。(中略)

男女入り混って50人ばかりの私の級のなかに、成績の抜群に良い大工の息子もいた。休みの時間にも「勉強」をしていることが多く、他の子供たちとは親しんでいなかったが、私は教室での競争相手でもあり、友だちでもあった。あるとき、学校の帰り道に、誘われて、私は彼の家へ行ったことがある。大工の家は、学校に近く、かなりの幅の道路に面し、舗装にはみ出すほど材木やつくりかけの雨戸や机などをならべていた。土間には鉋屑が散乱して足の踏場もない。その家のまえで、教場での私の競争相手は、俄に丁寧な言葉を使い、「ここで一寸待ってください」というと、自分だけなかへ入って行った。入口がほかにないので、仕事場を通って出入りをしていてらしい。しかし私を家のなかへ案内しようというのではなかった。しばらくしてもう一度あらわれると、舗道におかれた角材のひとつに腰をおろして、「ここがよい」といった。人通りの多くない舗道には、秋だったのだろう、やわらかい陽ざしが降りそそいでいて、そのなかを近所のおかみさんや国学院大學の羽織袴の学生などが、下駄の音を高く響かせて通っていった。そのとき私たちが何を話し、何をしていたのか、もう覚えていない。とにかく私をおどろかせたのは、しばらくして家の方から、私の友だちの名を鋭くよぶ声が聞えたときである。それは女の声だった。母親なのだろう、と私は思ったが、そういうことに慣れているらしい友だちはあまり慌てた様子でもなくて、ゆっくり起ちあがった。「赤ん坊をあやさなければいけないんだ。もっといてもいいだろう、まだ帰らなくても。一寸赤ん坊を背負ってくるだけなんだ」。しかし彼の背に十文字の紐でくくりつけられた赤ん坊は、容易に泣きやまなかったから、私たちはもはやほとんど話をすることができなかった。「家へ帰ってくると、勉強ができないからねえ」と彼は少し淋しそうにいった。私は教室での彼との競争が、全く条件のちがう競争であったということを理解し、そのことにほとんど後ろめたさを感じていた。 (中略)

・・・しかし私だけが中産階級の子供であったのではないし、小学校の友だちが私になかったわけでもない。日本郵船の船長の娘は、私とおなじ齢で、同じ小学校へ通っていた。船長は一年の大部分を船に乗っていて、家にいなかったから、妻君は主学生のその娘をよい話相手にしていたのであろう。女の子は、私の聞いたことのない話を実に沢山知っていた。「馬鹿ねえ、そんなことも知らないの?」というのが、彼女の口癖であった。「あの先生が休んでいるのは、赤ちゃんができるからなの」とか、「校長先生が今度外国へ行くらしいけど選挙の年だから大変ね」とかいう話を次から次へとしてくれる。私はむろん「選挙」という言葉を知らず、いわんや区会議員の選挙と小学校の校長との関係を想像できるはずもなかった。「馬鹿ねえ、そんなことも知らないの、あたしもよく知らないけれど」と彼女はこともなげにいった。人物批評にも辛辣で、「あの子は、偉そうなことをいっても、自分でもよくわかってないのよ、どうせ子供のいうことでしょう」などといい、「あなたのお父さんもいいけど、むっつりしているのが、どうかな。お酒を飲んで、あまり陽気なのも、困るけど」といったりした。

陽気で、話好きで、辛辣で、しかし悪げがなくて、少しも感傷的でないこの娘とのつき合いは、ながくつづいた。中学校に入ってから間もなく、私が芥川龍之介を知ったのも、彼女を通してである。「馬鹿ねえ、芥川龍之介を知らないの?」。そして芥川選集の大きな一冊本を貸してくれた。私はその一冊本を読み通すと、それだけでは満足できず、一年間の小遣いをためて、全集を買ったのである。彼女はのちに私の妹のよい友だちとなり、両方が結婚してからもつき合っていた。私と会うことは稀になったが、会えば相変わらず、快活で、辛辣だった。欧州で数年をすごして帰ってきたときに、妹の家で、久し振りに彼女から東京の知人の話を聞いたことがある。「馬鹿ねえ、あら、ごめんなさい、でも、そういうのが西洋呆けというのかもしれないわ」「そうよ、三年もいなかったのですもの」と妹はいった。

八幡宮から学校までの道には、両側に桜が植えられていた。その桜は、老木で、春には素晴らし花をつけた。桜横町とよばれたその道には、住宅の間にまじって、いくつかの商店もあり、そこで子供たちは、鉛筆や雑記帳を買い、学校の早くおわったときには、戯れながら暇をつぶしていた。カラタチの空地のように町から離れていず、八幡宮の境内のように男の子だけの遊び場でもなく、桜横町には、男の子も、女の子も、文房具屋のおかみさんも、自転車で通るそばやの小僧も、郵便配達もいたのである。学校に近かったから、道玄坂などとはちがって、町の生活ともつながっていた。私は二つの世界が交り、子供と大人が同居し、未知なるものが身近なるものに刺戟をあたえるその桜横町のひとときを好んでいた。★

 

『羊の歌』は、1966年11月から翌年4月まで、『続羊の歌』は、67年7月から同年12月まで、『朝日ジャーナル』に連載された。著者47歳から48歳の作品である。1968年に岩波新書として発刊されたとき、あとがきとして、加藤周一は次のように書いている。

 

★軍国主義がほろび、日本国に言論の自由が回復されてから、私は文筆を業として今日に及んだ。その間20年、私の作文の、私事にわたることは、ほとんどなかった。今俄に半生を顧みて想い出を綴る気になったのは、必ずしも懐旧の情がやみ難かったからではない。私の一身のいくらか現代日本人の平均にちかいことに思い到ったからである。

中肉中背、富まず、貧ならず、言語と知識は、半ば和風に半ば洋風をつき交ぜ、宗教は神仏いずれも信ぜず、天下の政事については、みずから青雲の志をいだかず、道徳的価値については、相対主義をとる。人種的偏見はほとんどない。藝術は大いにこれをたのしむが、みずから画筆に親しみ、奏楽に興ずるには到らない。―――こういう日本人が成りたったのは、どういう条件のもとにおいてであったか。私は例を私自身にとって、そのことを語ろうとした。★

 

「私の一身のいくらか現代日本人の平均にちかいことに思い到ったからである」という言葉は、読者の私たちからみれば、編集者からは「知の巨人」ということばを冠され、英仏独語をそれぞれの国の大学で講義できるレヴェルで自由に話せる人の口からでてくれば、「ご冗談を・・・・」といいたくもなる。このあとがきの言葉は、はじめて目にしたときから、気になっていた言葉であり、この人を理解するカギになるようにも思えるので、ここで少し考えてみたい。

といってみたものの、立ち止って考えてみれば、事はそんなに難しいことではない。確かに、知れば知るほど、加藤周一という人は「知の巨人」の名にふさわしい類いまれな知性だと思うし、英仏独すべての言葉で講義をした日本人というのも、まずいないといっていいのだから、私たちはこういう人を前にすると、とても偉大な人と思い身構えてしまうのである。悲しいかな、なかなか対等の立場に立てないのだ。

しかし、彼が「あとがきで」書いたことは、社会学的事実ではなくて、文筆家としての、見立てであり、気構えとでもいうべきものである。だから「あとがき」の言葉は、私たちの側からではなく、彼の位置に立って考えなくてはならない。

著者にたいする尊敬の念があるのは当然ではあるし、言論の世界、文芸の世界には、著者と読者という立場の違いというものもある。しかし、そういうものを越えて、一人の人間同士として対等に参加している世界、それが文芸の世界である。読者としてであれ、文学の世界に立つというときには、私たちはそのような意識を持つことが望まれる。加藤周一の立っている位置、加藤周一の抱いている倫理はそうではないのか。言論人としての自覚を常にもっている彼にとっては自然でもあることが、私たちにとってはかなり意識的でなくてはならないのである。

この章に書かれている小学校の友人たちのエピソードには、立場を越えた愛情にあふれている。貧富の差も、能力の差も、境遇の差も、理解することはできても、共有することはできない。しかし、その違いを越えて、考えようとすることはできる。そのちがいを越えて、立つことができるのが文学の世界なのだ。

「あとがき」に記されたことばは、この伝記を書くにあたっての「方法」とも言えなくもないが、それは彼の内部にある倫理でもあっただろう。

引用した文章の最後にある、著者が想い出のなかで愛してやまない桜横町の情景描写は、とても印象的なものである。この場所に、今、加藤の「さくら横ちょう」の詩を刻んだ詩碑の建立が進められている。この事業を進めているのは、NPO法人IPEXに所属している在日華僑の方々や中国人学者であり、加藤周一の日中問題にかかわる提言、著作に感銘を受けてきたという。NPO法人の入っているビルの前の通りが偶然≪さくら横ちょう≫であるとのこと。「さくら横ちょう」の一節を紹介しておこう。

                                                                                                                                        春の宵 さくらが咲くと

   花ばかり さくら横ちょう

   想出す 恋の昨日

   君はもうここにゐないと

 

ある晴れた日に

★ある晴れた日の朝、私は同級の学生たちと共に、本郷の大学の医学部の構内を、附属病院の方へ歩いていた。そのとき、学生の一人が、本郷通りで手に入れた新聞の号外を読みあげた。すると私たちの間には、一種のざわめきが波のように拡がった。誰かが何かをいったというのではなく、いわば言葉にならぬ反応が集っておのずから一つの溜息のようなものになったのであろう。私たちは、そのとき太平洋戦争という事実と、向き合っていた。

私は周囲の世界が,俄に、みたこともない風景に変わるのを感じた。基礎医学の建物も、樹立ちも、同級生の学生服も、一年以上の間毎日見慣れてきたものであり、それはそのまま、初冬の小春日和の静かな午前の光のなかにありながら、同時にはじめて見る風景の異様に鮮やかな印象をよびさました。住み慣れた世界と私との間をつなぐ糸が、突然切れたとでもいうことであろうか。しかしそれは、説明にすぎないだろう。その感覚的な印象は、たとえばものの味のように、言葉ではいいあらわし難いが、実に鮮明なもので、再び同じ経験をしたときには、ただちにそれとわかるにちがいないほどはっきりしていた。現にいくさが終わって後、母が死のうとしていたときにも、私の周囲では、風景が全く同じように変わった。またある一人の女に出会ったときにも、東京の街がもはや同じ東京の街ではなくなったことがある。しかしそのために、私が何か特別のことをいったり、したりしていたわけではない。いくさのはじまりを知ったときにも、私は同級生の群れのなかを、何事もなかったかのように、附属病院の方へ歩きつづけていた。その頃の私はいくさが近づきつつあることを知らなくはなかったが、英米両国を相手にしてのいくさがほんとうにおこるだろうとは信じていなかった。私は私自身の結論が現実になること―――殊にその晴れた冬の日の朝の現実になるだろうということを信じていなかった。私は同級生たちと、そのまま、附属病院のなかの階段教室へ入り、診断学の講義―――でそれはあっただろう―――が、いつものようにはじまって、いつものように終るのを、茫然と見まもっていた。講義の内容は耳に入らず、ただ落ち着き払った教授が今朝の号外のことを知っているのだろうか、それともまだ知らないので、何事もおこらなかったかのように平然としているのだろうか、と考え続けていた。

「どうなるのだろうかね」と母は、私が家に戻るといった。「勝ち目はないですね」と私は吐き出すようにいった。「そうかしら?」「他に考えようがないですよ」「海軍大臣が無鉄砲だから、あれでは心配だと叔父さまもいっていらっしゃったけれど。・・・大変なことになるかもしれないね」「なるでしょう、もちろん」「そんなことを誰にもいわない方がいいよ」と母はいった。

その日の夕方から、空襲に備えて灯火管制がはじまったが、私はその晩の新橋演舞場の切符を持っていた。演舞場は文楽の引越興行であった。「出かけなくてもいいじゃないか」と母はいった、「無駄足になるかもしれないし・・・」。私は母が「無駄足」を心配しているのではないことをよく知っていた。しかし、「やっていなかったら、すぐに帰ってきますよ」といって、家を出た。地下鉄は平常どおりに動いていた。銀座四丁目で降りると、街は暗かった。新橋演舞場のまえには、ほとんど人通りがなく、ほの白い夜空の下に演舞場の建物だけが黒い大きな塊のように静まりかえっていた。なるほど引越興行は中止らしい、と私は思った。しかし念のために入口までいってみると、意外にも、入り口は開いていて、受付の男もいた。観客の姿はどこにもみえなかったが、私は切符をさし出して、劇場のなかへ入った。二階の観客席には私の他にひとりの客もいなかったので、私はまえへ行って、真中の席に座った。平土間を見下ろすと、四、五人の男が、離れ離れに座っているだけで、芝居のはじまりそうな気配はない。支配人か何かが出てきて、切符の払い戻しの説明でもするのだろう、と私はもう一度考えた。そのときである、義太夫の語り手と三味線の男があらわれて、席に着いたのは。「相勤めます太夫は・・・」という名乗り、あのさわやかな拍子木の音が、客のいない劇場のなかに鳴り響いた。そして幕があき、人形が動き出した。私は忽ち義太夫と三味線の世界のなかへひきこまれていった。「今頃は半七さん・・・」―――たしかにそれは異様な光景であった。古靱太夫は、誰も見ていないところで、遠い江戸時代の町家の女となり、たったひとり、全身をよじり、声をふりしぼり、歎き、訴え、泣いていた。もはやそこには、いくさも、灯火管制も、内閣情報局もなかった。その代わりに、何をもってしても揺り動かし難い強固な一つの世界、女の恋の歎きを、そのあらゆる微妙な陰影を映しながら、一つの様式にまで昇華させた世界、三味線と古靱太夫の声の呼吸に一分の隙もない表現の世界があった。その世界は、そのときはじめて、観客の厚い層を通してではなく、裸で、じかに、劇場の外のもう一つの世界―――軍国日本の観念と実際のすべてに相対し、そのあらゆる自己充足性と自己目的性において、少しもゆずらず、鮮やかに堂々と、悲劇的にたっていた。古靱太夫は孤軍奮闘していたのであろうか。そうではあるまい、江戸文化のすべてが、その身体のなかに凝縮していたのだ。肉体と化した文化・・・。そういうことが、言葉としてではなく、動かすべからざる現実として私の眼のまえにあった。他の何が必要であったろうか。★

 

 

青春

★私は大学に入って、まもなく、肺炎につづいて、湿性肋膜炎を患った。化学療法はまだ行われず、抗生物質はまだ発見されていなかった。私は一時生死の境を彷徨し、その後の回復期を、世田谷の赤堤の借家で、なすこともなく、過ごした。その回復期の間、生きていることは、それだけで、貴重なことのように思われ、傍からみればとるにも足らぬ小さな事が、私には、世界中の何物にも換え難いよろこびになった。一杯の熱い番茶、古い本の紙の匂い、階下の母と妹の話し声、聞き覚えのあるいくつかの旋律、冬の午後の澄んで明るい陽ざし、静かに流れていく時間の感覚・・・そのとき、「死」とは、そのよろこびをわたしから奪うものに他ならなかった。私は自分の痩せた手肢を見つめ、それが焼けて跡かたもなくなるだろうということ、またその手肢を見つめている意識そのものが消えてなくなるだろうことを想像し、そうならざるをえないようにできあがっている世界の秩序そのものを、憎悪した。それは悪であり、不正であり、醜悪な不合理である。熱にうなされた子供の私が、悪夢のなかで巨大な渦にまきこまれ、無限に深く吸いこまれていったときの、あの息のとまるような恐怖を私は想い出し、「神」を信じてはいなかったが、たとえ神があるとしても、それが正義の神であることはできない、と考えた。世界はつくられたのかもしれないが、やがてほろびなければならないようにしかつくられていない。「めぐみ」はあたえられたのかもしれないが、やがて奪われるようにしかあたえられていない。すべての存在が死に至るのは、世界の内側の構造のためであって、世界の外側からの「審判」の介入によるのではない。一度それをつくってしまった以上、ただ一つの野の花をふみにじるために、創造者自身といえども、正当な理由を見出すことはできないだろう。必ずしもすべての存在が善ではない。しかしどれほど小さな存在の値打も測り知れないのであるから、存在を破壊する者は、悪でなければならない・・・。

病身の子供のころと同じように、私は、ながびいた回復期を、本を読んで暮らしていた。しかし私の興味の対象は、すでに、子供の頃の銀河系宇宙や先史時代の話から、美女との出会いや恋愛の冒険に移って久しくなっていた。私は文学に興味をもつようになり、近松の道行や明治以後三代の小説に読み耽った。しかしそういう文学が、私の空想のすべてを満足させていたわけではない。空想の赴くところは、必ずしも人情の機微ばかりではなく、また歴史や社会についての、知的な領域にも及ぼうとしていた。しかし科学は、検証することのできないような空想とは、係らない。近松は、情死の甘美を詠うけれども、ほとんど知的要素を含まない。科学も近松も満足させないだろう空想に、私を誘ったのは、西洋の文学であった。私は近松の世話物によって代表される文学とはちがう種類の文学が、人間生活の感覚的・感情的・知的領域の「全体」に渉り得るということを、はじめて知ろうとしていた。パスカルからジードまで、ラシーヌからプルーストまで。殊に『海辺の墓地』と『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』は、その頃の私の聖書であった。 (中略) 私が興味を持ったのは、その特定の考えや、特定の作品に対してではない。その感覚的・知的世界の全体、その全体の構造―――あるいはむしろ様式に、私にとっての一種の啓示があったのである。ヴァレリーは私にとって、単に詩人でも、美学者でも、文藝批評家でも、科学者でも、哲学者でもなくて、それらの専門的な知的領域の全体に対して、ひとりの人間の態度を決定するような何者かであった。ヴァレリーの著作との出会は、私にはあまりに貴重に思われたので、それを文学とよぶかよばないかは、もはや私にとってどうでもよいことであった。

赤堤の家には、何人かの友人たちが、いわば類をもって集まることがあった。仏文科の学生であった山崎剛太郎や中村真一郎は、『失われた時をもとめて』を精しく読んで、みずから小説を書こうとしていたし、福永武彦はその頃すでに『惡の華』や『巴里の憂鬱』の訳をつくっていたにちがいない。本郷の大学の法学部に通っていた窪田や中西は、マラルメに熱中し、独文科の学生であった原田義人も、ドイツ語の詩文ばかりでなく、フランスの象徴派の詩人たちに関心をもっていた。私たちは、多くの場合に、駄弁を弄していたにすぎないけれども・・・規則的に集まっていたので、私たちの間の関係は親密になった。

 

いくさは私たちの戸口まで迫ってきていた。・・・・私の友人はひとりまたひとりとさり、誰もいくさが終わるまで帰って来なかった。・・・・

 

しかし中西は死んでしまった。太平洋のいくさの全体のなかで、私にどうしても承認できないことは、あれほど生きることを願っていた男が殺されたということである。生きることを願っていたのは、むろん中西だけではなかった。しかし中西は私の友人であった。一人の友人の生命にくらべれば、太平洋の島の全部に何の価値があるだろうか。私は油の浮いた南の海を見た。彼の眼が最後にみたでもあろう青い空と太陽を想像した。彼は最後に妹の顔を想いうかべたかもしれないし、母親の顔を想いうかべたかもしれない。愛したかもしれない女、やりとげたかもしれない仕事、読んだかもしれない詩句、聞いたかもしれない音楽・・・彼はまだ生きはじめたばかりで、もっと生きようと願っていたのだ。みずから進んで死地に赴いたのでも、「だまされて」死を択んだのでもない。ついに彼をだますことのできなかった権力が、物理的な力で彼を死地に強制したのである。わたしは中西の死を知ったときに、しばらく茫然としていたが、我にかえると、悲しみではなくて、抑え難い怒りを感じた。太平洋戦争のすべてを許しても、中西の死を私が許すことはないだろうと思う。それはとりかえしのつかない罪であり、罪は償われなくてはならない。・・・

しかしその後時が経つにつれて、私にはもう一つの考えも、しきりにつきまとう様になった。それは、私が生きのこり、中西が死んだということに、何らの正当な理由もあり得ないという考えである。彼の家に集まり、『ドゥイノの悲歌』を読んでいたときに、私たちは、同じものを愛し、同じものを憎んでいた。同じ事を理解し、同じ事を軽蔑していた。同じように世間を知らず、また世間を知らないということを知っていた。人生は無制限にながく、したがって将来何をするかということを、さしあたって決める必要はないと考えていた。ただ生きる必要を内側に感じていたので、生きることを願っていた。もしその願いの無残にも断ち切られることがなかったら・・・と、私はその後しばしば考えるようになった。もし九死に一生を得て、彼が還っていたら、彼自身を死地に追いこんだものに対して、中西はどんな態度をとったであろうか。私ではなくて、彼が生きのびていたら、彼は何をすることを願ったであろうか。「天に代わり不義を討つ」という言葉は、無意味にちがいない。第一に、天の意志は知ることができない。第二に、たとえ知ることができても、天を代表する資格はだれにもない。しかし友人の切望は察することができるかもしれないし、代わってそれを実行する資格―――はないかもしれないが、漠然としてしかし激しい 

誘いはあり得るだろう。私はその後、みずから退いて、羊のようにおとなしい沈黙をまもろうと考えたときに、実にしばしば中西を想い出したのである。★

 

 

私たち、現代の日本という時代と社会に生きる人間にとって、当分の間、おそらく、まだまだ幾世代にもわたって、知っておかねばならないテーマ、考えなければならない問題があると思う。その一番目が15年戦争(満州事変から沖縄戦・ヒロシマ・ナガサキ、敗戦にいたる一連の日本の戦争行為)であると思う。そして、15年戦争がいきなり単独で起こったわけではないのだから、そこにいたる日本社会の歩みと、15年戦争の敗北を経ての日本社会歩み、これらをひとつのつながりとして見る物語が私たちには必要なのだと思う。

そのためには、1冊の本、1本の映画では足りない。生涯のさまざまな時期に、さまざまな出会いがあればよい。学校の授業は大切ではあるが、心に訴えかけるという点では文学作品や映画の力が大きい。子供時代の出会いという点から見ると、いわさきちひろの絵本、映画『火垂るの墓』、漫画『はだしのゲン』小説『少年H』などが思い浮かぶのだが、大人の読む本として、戦争を主題にして書かれたものではないにもかかわらず、ひときわ異彩を放っているのが加藤周一の『羊の歌』ではないかというのが私の近年の思いである。

「ある晴れた日に」「青春」の一部を引用したが、ここには加藤周一という一人の青年の戦争体験と、その体験を経て、彼自身の反戦思想へとつながっていく思いが、強く、あざやかに、表現されている。それにしても、悪夢のような戦争に引きずり込まれるように入ってゆく、開戦の日の朝の日常に兆す時空の歪みの感覚や、戦争という時空と対峙している新橋演舞場を描いた開戦当夜の場面は、強いインパクトで、読者に迫ってくる。また、親友中西を思う加藤の心情は、彼の書いた全著書、彼が語った全発言のなかで、加藤が語った最も強いことばの一つである。これら、戦争にかかわる回想には、強い緊張感がみなぎっている。そこには、一方に、かけがえのない一個人を決定的に大切なものとして考える加藤の信念があり、もう一方に、国家が暴力装置と化して人間存在そのものを破壊していく事態への怒り、それが人間によって引き起こされたものである以上、それを見つめ続けねばならぬという加藤の意志と倫理がある。

ここには、彼の思想の生成の姿が直にあらわれていると思う。これらの文章は、戦争を直接のテーマとして書き出されたのではなく、日常の生の充実を望んでいた若者たちの姿がかたられ、そこに避けようもなく襲ってくる戦争の様相が、あるがままに見つめられ、語られていく。そこでは、戦争と個人がきびしく対峙している。また、戦争と日常がきびしく対峙している。この対峙のなかから、意志と倫理が生み出され、それが思想の母胎となってゆく。

引用した「青春」の章の後「内科教室」、「8月15日」と戦争の時代を語る章が続いていて、『羊の歌』上巻は、そこで終わっている。「8月15日」から2か所を引用して、第2回を終りとする。下巻についても、今後の連載で書きたいと思っている。

 

八月一五日

★七月の末「ポツダム宣言」の「無視」と「戦争完遂」の発表から、8月15日の天皇の放送まで、ほとんど何ごとも手につかぬまま、私は政府がどういう決定をするのか、どんな小さな徴候からでもそれを推定しようとして、新聞や放送に注意していた。広島の原爆、ソ連の参戦、長崎の原爆と、事態は急速に進んでいた。もはや日本側が決定を先へのばすことはできず、「降伏」か、「本土決戦」か、そのどちらかが数日のうちに決るほかはないと思われた。「降伏」ならば、生きのこった人間が救われるし、「本土決戦」ならば、救われる可能性は、ほとんど全くない。しかし狂信的な軍国主義者が権力の中心から地方の病院の末端にまでみちあふれている国で、俄に「降伏」が実現するだろうとは、容易に想像することができなかった。しかしまた「本土決戦」は、権力者たちが、死出の道づれに国民の全体をまきこもうとする陰惨な自殺行為に他ならず―――あまりに馬鹿げていて,ほとんどあり得べからざることのようにも思われた。(中略)

(加藤周一の属する東京帝国大学医学部内科教室は上田に疎開していた。以下は、敗戦後まもなく、彼が東京へ出かけた時のこと)

私はひとりで東京へ出かけ、上野駅で、焼け野原になった東京を見た。私は41年12月8日の私自身の予想が、的中したことに、みずからおどろいていた。あのいくさを歓呼して迎えた人々は、どこへ行ったのか。それよりも彼らをだまし、死地へ追いたて、敗色濃くなるや、「焦土戦術」などという無意味に残酷なうわ言を口走っていた人々は、一体どこへ行ったのか。またそういう指導者たちに諂い、「死ぬことは生きることだ」とか、「桜花のように散るのが大和魂である」とか、人間の生命を軽んじることにさえも理屈らしいものを付け加え、自他を欺くことに専心していたあの御用学者・文士・詩人は、どこへ行ったのか。私にとっての焼跡は、単に東京の建物の焼きはらわれた跡ではなく、東京の全ての嘘とごまかし、時代錯誤と誇大妄想が、焼き払われた跡でもあった。(中略)焼き払われた東京には、人の心を打つ廃墟も、水火に堪えて生きのこった観念も、言葉もない。ただ巨大な徒労の消え去った後に限りない空虚があるばかりだ、と私は思った。しかしもはや、嘘も、にせものもない世界―――広い夕焼けの空は、ほんとうの空であり、瓦礫の間にのびた夏草はほんとうの夏草である。ほんとうのものは、たとえ焼跡であっても、嘘でかためた宮殿より、美しいだろう。私はそのとき希望にあふれていた。★