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思想の科学という水脈 第7回 赤坂真理から都留重人へ

 赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)を私にすすめたのは、職場の同僚である田上麦文であった。とにかくこれを読んでほしい、というかれの声音には有無を言わせぬ迫力を感じた。読みあぐねていた『東京プリズン』もこの本と合わせ読むことで、今度は読み解くことができ、私は、またこうして出会うべき著者に、しっかり出会うことができた。その内容は前回書いた。

 赤坂真理のこの二冊にあらわされた戦後認識は1964年生まれの日本人の戦後認識がこのようなものとしてありうるという、一つの世代を象徴する指標としての意味を持っていると私は考えている。赤坂の体験には強い個人性・特異性と、この人の属する日本人を象徴する社会性・世代性の両面があると思う。赤坂は個人的な痛みの体験をもとにしながら、その後の探求のなかで、戦後の日本人の欠落した歴史意識(一言で言えば、それは15年戦争の日本の戦争責任である)の深部へと下りていき、私たちが立っている現代・現在の足場を照らし出す作品をつくりだしたのだ。

 ここにある欠落の意識、歴史的欠落の痛みが、現在を切り拓いていく力に転化する物語を作者はつくり出した。その先に、日本社会の明日をつくりだすためには、また新たな探求と出会いが必要であろう。そう思うとき、どういうわけか、私には都留重人の生涯と仕事が大きな存在感をもって迫ってくる。ここでは、そのことをめぐって、少し書いてみたい。

 

 赤坂の16歳でのアメリカ留学の体験は決して幸福な留学体験ではなく、彼女自身がその体験の痛みと向き合う時間のなかで、貴重な作品を生み出したのだが、都留重人のアメリカ留学体験は、それと比べると、まことに対照的、あるいは対蹠的ともいっていいものである。都留重人は1930年12月、旧制第八高等学校二年の時(18歳)、治安維持法による八高生一斉検挙(36人)の中にいて、「12月2日から真冬の3か月を留置場で暮らしたあと出てきたときには、八高を除名になっていたことを知らされた。」という。彼のアメリカ留学もそういう意味では痛みからのスタートではあるのだが、日本の学校での勉学の再開を望めなくなった都留は父のすすめに従って、アメリカのウィスコンシン州のローレンス・カレジに行くことになる。その準備の様子を彼の自伝『いくつもの岐路を回顧して』(岩波書店)から引いてみる。

 

 

 

★アメリカのオーバーン神学校に留学した経験をもつ叔父の仙次は、これに賛成し、私は早速、その準備のための英会話の特訓を受けることになったのである。その時、何くれとなく世話役を買って出られたのが名古屋のYMCA顧問役だったアーネスト・トルーマン氏である。氏は、まず英会話のチューターとしてウィルバー夫妻という新婚早々の若夫婦を私に紹介し同時にジェイムズ・ワトキンズという青年を話し相手の友人として推し、その上・・★

 

 つぎはカレジに着いた時の様子。

★若い、金髪短身の青年紳士が、落ち着いた足どりで何の躊躇もなく私の方へ歩みよって、手をさしのべ、「ミスター、シゲト・ツルでしょう。私が学生主事のクラップです。よくいらっしゃいました」と迎えてくれたのである。私はこの時の第一印象をいつまでも忘れない。どんな問題であれ、この人ならば頼りにして相談できる、という気持ちを、私はこの時クラップ氏にたいして抱いた。そして事実、アプルトンにいた2年間のあいだ、私の生活のかじを取ってくれたのはクラップ氏であったと言える。その後、氏は、リリエンソールの後を継いで、TVA(テネシー河域公社)理事長の要職に就いたが・・・★

 

 もう一つ、カレジの寮生活からのエピソード。

★寮の中で最初に割り当てられた私の部屋は、一階の広い喫煙室にちかく、そこでしばしばかけはなしのままになるラジオがやかましいだけでなく、共用のバスルームにはシャワーしかないという点が物足りなかった。ところが4階へ行くと、水圧が足りないためシャワーの代わりにバス・タブがあるというので、なんとしても日本での習慣から風呂の恋しかった私は、四階への転室を申し出て、二学期からそれが認められたのである。そし早速、日本人の私には大きすぎるバス・タブに熱いお湯をいっぱいため、首から下は湯につかったまま、日本での銭湯気分を想起して楽しんだのである。この様子を異とした寮生が、手をタブに突っ込んで湯の熱いことに驚き「お前の皮膚はなんでできているんだ!」と叫び、以来、私のあだ名は「タフィー」ということになった。そして、男子寮名物男の歌のなかには、『天井ちかくの四階には 風呂の哲人タフィーあり』という一節が加えられたのである私。私が『哲人』などと呼ばれたのも、深い仔細あってのことではない。第一、私は当時の多くの日本の学生がそうであったように、かなりの数の本を持っていた。日本からは、名古屋の日進堂うを通して各方面の新刊書をおくらせていたし、アプルトンでも、街に一軒しかなかった本屋から教科書以外の本をいろいろと買い集めていた。教科書以外の本を買うということのきわめて稀なアメリカの学生にとっては、私の部屋は奇観であったらしい。はじめて入ってくる学生は、よく(Holy Cats!)とか(Holy Mackere!)とかいう、私などには聞きなれない感嘆符を発して、まず本の多いことを偉としたものである。「哲人」と呼んだのも、そのためであったろう。★

 

 幸福で充実した留学生活の様子がまことによく伝わってくるエピソードではないだろうか。そして彼の留学生活は年を追うごとに充実度をくわえていく。とりわけ、ローレンス・カレジの二年間の後転学したハーバード大学から、同じハーバードの経済学部大学院での都留の経験が、1930年代ハーバード経済学部の黄金時代と呼ばれている時期のものであったことはまことに幸運なことであったと思う。ここから後の世界の経済学界をリードする逸材が輩出していて、ガルブレイス、サミュエルソン、レオンチェフをはじめそれらの学者と肩を並べ、言わば彼らの盟友として都留が国際的経済学者としての人生を歩んでいくことになるからである。しかし、私の関心の中心はそこにはない。

 都留重人は早くも八高時代に現れた社会と世界の現実と歴史への熱い情熱と、そのことを学問的知性によって解明しようとする冷静でかつ探求心に富んだな精神の人として、激動の20世紀のほぼ全体を生き抜いた。都留の知識人としての活動は経済学者をとしての仕事が中心にあったことは確かだが、戦争と平和をめぐる日本の戦中・戦後の動きにきわめて積極的な意識を持ち続け言論界で活発に発言したことと、戦後社会の復興と成長というテーマに対しては経済学者の専門性を生かしつつ、一方で学際的な公共政策の提言の場をきりひらいていったことは、学者知識人として類例のない活躍であった。

 日本とアメリカの双方に活動の場をこれほど広範に持ちえた人が、一例をあげると、日米安保条約解消の道を究めて具体的で建設的な提案を伴うかたちで半世紀ちかく訴えてきたことを知ることは私たちに大きな力を与える。詳しく知ったのは私も近年のことだが、私は都留の提案には今でも驚いている。赤坂の探求を導いたのは、欠落の意識であったが、都留の人生は、日本とアメリカの両社会の間で考えるべきことを見事に考え、なすべきことを可能な限り実践しようとした人生だったがゆえに、強い歴史的関係性のなかで響き合うように現れる。

 

 この文章は、言わば、赤坂に都留重人の存在を知らせたいという思いを中心に書いている。実際のところ、勉強家の赤坂はとっくに都留のことなど知っているかもしれない。しかし、そのことはどうでもいいことで、私が伝えたいのは、生まれで言えば、ちょうど半世紀も違う都留重人の存在が赤坂真理という存在と「戦争-アメリカ―留学―戦後社会」という時空のなかで照らし合い、拮抗する関係に見立てられるということである。文学や思想の仕事の本質はそういうことであるだろう。

 

 都留重人には自伝があるのだが、1960年代以降の彼の生涯を以上のような視野から見ていくためには、この自伝だけでは不十分であると思う。21世紀の現在を生きるための手がかりとしての都留重人のポートレートが書かれる必要がある。彼自身の書いたものですぐ読めるものとして、以下二冊がある。

 

 

 

  都留重人『21世紀日本への期待』(岩波書店2001年)

 都留重人『市場には心がない』(岩波書店2006年) 

        

 

 

日月堂 

「思想の科学」という水脈  

 上野文康    

 

日月堂

 

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